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わらしべ長者
 
 私は、何か失敗したりつらいことがあったとき「わらしべ長者」という昔話を思い出します。夢枕に立った神様 (または仏様) の”転んだときに手にさわったものを持って歩け”というお告げのとおり、転んで手にさわったわら一本を持って歩くうちに、いつのまにか長者になっていたという話です。

 人は面倒なこと、嫌なこと、つらいことなど、自分にとって不快に感じるものを避けます。おそらくほとんどの人が、はじめからそうなることがわかっていたら、それを回避する道を選ぶでしょう。できることなら、つらいめにあわないですむ人生にならないだろうか、なんて思う人もいるんではないでしょうか。でも、不快だと感じるつらい経験や悲しい経験は、人生に不必要なんでしょうか?私は、そういった経験は絶対に必要なものだと思っています。人を悲しくさせたりつらくさせる経験は、楽しいことやうれしいことよりも、多くのことが学べる学習の機会だと感じるからです。それは、次に同じ失敗をしないために身にける知識的な学習ではなくて、そこから自分を知る、人の気持ちを知るという精神的な学習です。

  例えば、誰かに裏切られ悲しい思いをしたとします。そのとき、その人を怨んだり憎んだりしているだけでは、決していいものはそこから生まれてきませんし、何も解決しません。その経験から、自分は何が学べるのか、その人は自分にとってどんな役割を果たしているのか、そんなことを考えてみる。それが不快か不快ではないかということは、あまり重要ではないと思うのです。自分をとりまいている全ての人、全てのものは、自分に何かを気付かせてくれる存在なんではないでしょうか。

 だからといって、すすんでつらいめにあおうとするのも考えものですが、遭遇する経験に対してはわらしべ長者のように、転んだらなにかをつかんで起きあがる精神で。それは、いつか大きなものにつながる学びになっていくんだと思います。私もずいぶん転んであっちこっちすりむきましたが、ただでは起きないわらしべ長者精神。ちょっとは長者に近づいているでしょう。たぶん。
1999/07/06
 
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